« 骆驼的断背山 | Main | 无情最是四月春 »

March 27, 2006

浮想联翩的樱花们...

《樱花》(节选)---作者:薄田泣菫 拙译:onair

唯有樱花,才是春华烂漫万紫千红中最出色的一个。
在春雨连绵的清冷里,那浅含红晕,似恨似怨,垂首低眉的花蕾万点,忽如一夜之间豁然绽放。雨过天晴,在朝阳洒下漫天金粉的清晨放眼望去,那满目晴朗绚烂的花瓣们的身影,与其说是一个感动,倒不如说是一个惊异。如果说众多的植物花卉,从含苞欲放到开花是一个成长的历程,那么对于樱花来说则是一个华丽的飞跃。是一首不要了第二乐章就直接奔向第三乐章的乐曲,跳跃着闯进表现和高昂的中心。当刚刚萌生新绿的草木,饶舌家的小鸟,沉默寡言的走兽,居无定所的蜗牛,地下工作者的鼹鼠,都像着了魔一般沉浸在生命复苏那一刻的欢悦里做着美梦的时候,唯有樱花,把个长及三春的欢乐都盛在一个不过两三天的盃里,尝尽生命炽热的燃烧和豪奢的激昂。恋爱中的人物,走起路来都是勇往直前绝不回头的。过去的诗人说

浮想联翩的樱花们

但那只不过是诗人们的想象而已,并非樱花自己的心情,因为她们知道其自身并不存在一个值得去浮想联翩的自己!在恋爱义无反顾的激情里,是不会有考虑什么生儿育女之类的闲情逸致的。所以说,尽管没有像梅花杏花那样去开花以至结果,但樱花们是生命的激扬和燃烧---哪怕在其他的花儿看来:真是枉费青春好时光---也在所不惜!

ycx.jpg

(节选「日本の名随筆65 桜」。作者:薄田泣菫(1877-1945),日本明治时代的代表诗人,随笔家)

Posted by onair at March 27, 2006 10:24 PM

Comments

好!

Posted by: swan at March 28, 2006 03:57 PM

hi,桜の花が咲きましたよ。
今は国内ですか?

Posted by: tianshu at March 31, 2006 10:44 PM

ゴールデンウィークは、一度日本に帰りますがその頃、桜はもうとっくに散ったよね....が、大連はいよいよアカシアの香りが漂うシーズンに...

次回はアカシアを謳おうかな?...

Posted by: onair at April 1, 2006 01:28 AM

既然是译出来的,能不能提供一下原文呢?

Posted by: arasi at April 1, 2006 07:55 PM

桜の花
薄田泣菫

 桜こそは、春の花のうちで表現の最もすぐれたものの一つであります。しとしとと降り暮らす春の雨の冷たさに、やや紅みを帯びて悲しさうにうなだれた莟といふ莟が、一夜のうちに咲き揃つて、雨あがりの金粉をふり撒いたやうな朝の日光のなかで、明るくほがらかに笑つてゐる花の姿は、多くの植物に見るやうな、莟から花への発展といふよりも、むしろすばらしい跳躍であります。感激といふよりも、驚異であります。第二楽章なしに直に第三楽章への躍進であり、表現と高興との中心への侵入であります。蘇へる生命の歓びに、やつと新芽を吹いたばかりの草も、木も、饒舌家(おしやべり)の小鳥も、沈黙家(むつつりや)の獣も、さすらひ人の蝸牛も、地下労働者のもぐらもちも、みんな魔術にでもかかつたやうに、いい気持になつて夢を見てゐるなかに、この桜の花のみは、ながい三春の歓楽を僅二日三日の盃に盛つて、そこに白熱した生命の燃焼と豪奢の高興とを味ひつくさうとするのであります。恋をするものは、道を歩くにも決して後をふり向かないといひます。むかしの詩人は、


さまざまの事思ひ出す桜かな


 といひましたが、それはその詩人自らの追想であつて、桜には何の追想もありません。追想するほど自分とかけ離れた自分を持たないからであります。張りきつた恋愛の激情には、子女の繁殖など思ふ余裕はありません。それ故に桜の花は、梅や杏のやうに実らしい実を結ばうとはしません。花自らが生命の昂揚であり、燃焼でありますから、それが他の花から見て、若き日の徒費であらうと、少しも構はないのであります。
 むかし徳川の末、たしか弘化の頃であつたと思ひます。名古屋に山本梅逸の弟子で、小島老鉄といつた画家がありました。古寺の閻魔堂のかたはらに、掘立小屋のやうな小やかな庵を結んで、乞食にも劣つた貧しい生活のなかにも、蘭の花のやうな清く高い心持を楽んでゐました。ある冬の事、あまりの寒さつづきに、小屋掛の身はどんなに凌ぎ難からうと、親切にもわざわざ炭三俵を送つてよこした友達がありました。老鉄はそれを見ると大層喜びました。
「折角の志ぢや。火をおこしてすぐに煖まるとせう。」
 といつて、いきなりそれに火をつけて、三俵とも一度に火にしてしまひました。そして尻を煖めながら、
「ああ煖かい、いい気持ぢや。久し振で今日は大尽になつたやうな気がするて。」
 といつて、いい気になつてゐたといふ事であります。
 炭を送つてよこした友達の心では、冬中の寒さはこれだけあつたら凌ぎおほせるだらうと位に考へてゐたらしいのです。また普通の人ならばきつとさうしただらうと思はれます。だが、老鉄はそんな真似をしないで、三俵一度に火にしてしまひました。つまりこれまでの貧乏暮しのやうに、ちびりちびり火をおこしたところで、三俵の炭はやつと六十日を持ちこたへるに過ぎますまい。それでは唯平凡な日の連続に過ぎません。それよりかも、折角到来の炭です。残りの五十九日はよし寒さに顫へてゐようとも、その五十九日にも更へ難い程の一日を味つてみたいといふのが、画家老鉄のその日の思ひ立ちではありますまいか。彼が尻を煖めながら、いい気持になつて、
「まるで大尽になつたやうな気がする。」
 といつたのは、実際言葉どほりに生活の跳飛であり、経験の躍進であり、更にまた新しい心持の世界の新発見でありました。
 桜の花の気持は、画家老鉄のやうな態度を持つた人で、初めてよく味はれますし、老鉄の抱いてゐたやうな心持は、この花の姿でおもしろく表現出来てゐると思ひます。

Posted by: 原文欣赏 at April 1, 2006 09:08 PM

Post a comment




Remember Me?


Copyright © 1999-2004 Chinaeiga.Com All Rights Reserved.